会計と税務(序章)
はじめに
会計と税務は切っても切れない仲ですが、決していつも仲がいいという訳ではありません。
時には喧嘩したり、時には仲良しになったり様々です。
今は一体どういう関係にあるのでしょうか。
ちょっとそれを考える前に、タイムスリップして、明治時代に時間を遡ってみましょう!
明治時代初期と簿記
時は明治、ついこないだまでは、侍が闊歩している時代でした。
しかし今や近代文明を取り入れるために、皆が一生懸命になっている。
西洋から、いろいろな文明を輸入してきました。
その中の一つに簿記というものがありました。
それまで日本は「帳合」というものを使っていました。
ここに西洋式の「簿記」というものが入ってきたのです。
和式「帳合」は単純な記録でしかなかったようですね。
西洋式「簿記」は、今でいう複式簿記です。
ただ、当時はまだ「簿記」ということばがなかったのです。
かの有名な福沢諭吉さんがアメリカの簿記書(Bryant and Stratton's Common School Book-keeping: Embracing Single and Double Entry(1871))を翻訳して、「帳合之法」(写真:引用元/国立国会図書館)という本を出版しました(1873年)が、この時はBook-keepingをまだ「帳合」と訳していました。
ただすぐに、日本に来日していたアラン・シャンドという人が『銀行簿記精法』を出版しました(1873年)。
ちょうど日本で初めての国立銀行である第一国立銀行(今のみずほ銀行)が設立されたばかりでした。
この第一国立銀行がシャンドの簿記書を取り入れました。
福沢の簿記書は、専門書というよりも啓蒙書的なものであったらしく、あまり人気がなかったようです。
その後も多くの銀行が設立され、日本ではこのシャンド式簿記が基本となりました。
かの有名な渋沢栄一さんも、このシャンド式の普及に努めたようで、昭和40年代の初期にいたるまで,わが国のすべての銀行の会計システムとして実施されていたようです。
第一国立銀行の第2回決算(明治7(1874) 年6月30日、当時は半年決算)における『半季利益金割合報告』(写真:引用元/早稲田大学図書館)は、「損益計算書+利益処分計算書」という当時のイギリス式の決算報告書でした。
ところで、この報告書は、利益処分をした報告書(いわゆる「宣言型」)になりますが、これはのちの商法では違法になってしまうのです。
あくまでも利益処分を決めるのは、株主総会である、ということでした。
そこで、のちに商法ができてからは、利益処分「案」とした報告書(「提示型」)に変更されるのでした。
ところでもちろんこのシャンド式簿記は複式簿記の一つです。
今では当たり前の複式簿記が、このころ日本に普及されたのですね。
1873年と言えば明治6年のことですから、明治に入ってかなり早く導入されたのです。
ちなみに福沢さんが書いた「帳合之法」の初編(1873年)は単式簿記で、2編(1874年)が複式簿記になりますが、訳語の作成としては福沢さんの活躍は大きかったです。
明治初期の頃は、実は多くの簿記・会計書が日本に輸入されましたが、その多くはイギリス・アメリカの簿記・会計書でした。
つまり、英米式会計が明治初期には早くも日本に導入されていたのです。
そして、日本でいち早く簿記の教育をしたのは、当時の大蔵省だったのですね。
教育と翻訳が主な目的で、シャンドを雇って、『銀行簿記精法』を出版したのも大蔵省だったんです。
明治10年代から明治20年代にかけては,民間の簿記学校も多数設立され,多数の簿記書が出版されました。
明治19年から明治25年(1892年)にかけて簿記書の出版もピークに達して「簿記ブーム」が生じていたのでした。
そして、明治28年には、初めて翻訳本ではない日本人による簿記書が出版されました。
それが、東京高等商業学校(現在の一橋大学)教授だった下野直太朗の『簿記精理』(写真:引用元/国立国会図書館)でした。
当時のドイツにおいては,シュマーレンバッハ(EugenSchmalenbach)の動的貸借対照表論が出現して、動態論と静態論との間の論争が展開されていましたが、下野の説は独創的な動態論をとっており、シュマーレンバッハの動態論とはまったく別のものだったようです。
ただ、当時の日本としては、まだ静態論すら唱える日本人はいませんでしたので、いきなり動態論へ飛んでしまったので、当時は変わり者と呼ばれていたようです。
ちなみに、静態論としての簿記書(というよりもこのころからは会計学が目覚めて来た頃で)としては、早稲田大学の教授である吉田良三によって、明治43年に『会計学』(写真:引用元/国立国会図書館)が出版されました。この本の祖は、アメリカのハットフィールド(Henry Rand Hatfield)でした。
また、下野、吉田はのちに日本会計学会を創設したお偉方なのです(大正6年)。
日本の会計学研究の立役者ですね。
商法・税法の創設
日本が西洋近代国家に追いつくための一つに、近代法制の整備がありました。
そしてその憲法により、帝国議会(写真は帝国議会 衆議院之図:引用元/山口県立博物館)が設置されました。
明治23年には民法と商法が発布されました(この民商法は、法典論争を起こして廃止されてしまい、民法は明治29年、商法は明治32年に新たに成立されました)。
ところで、税法はいち早く明治20年に所得税法(写真:引用元/国立公文書館)が創設されていました。
国造りには、近代税制の整備が急がれていたのです。
しかし実は、この「所得」に課税するということは非常に難しいのですね。
つまり「所得」というものはあまりに概念的なものに過ぎないからです。
それまでの日本の税制の中心は、地租と酒税でした。
これらは定量的に捕捉できますので簡単ですが、「所得」を把握するためには、資本主義が発達して近代的な会計システムが整備されなければ難しいからです。
当時の先進国のうち所得税が設けられたのは、イギリスが1799年、ドイツが1851年、アメリカは1894年に所得税が採用されたが,1895年に最高裁判所によって違憲判決が下されたのでやめて,その後1913年の憲法修正16条を受けて所得税を採用、フランスは1914年の一般所得税と1917年の分類所得税の時です。
日本が明治20年(1887年)に所得税を採用したのはかなり早い部類にはいりますね。
ただ、まだ会計システムも十分普及されていない時代に(当時の商人は相変わらず大福帳を使っていたらしいです)、かなり無理をしたものだと思います。
それが後々いろんな問題を起こしてきますが、よちよち歩きながら発展していったと言ってもいいでしょう。
ところで、当時は法人税法はまだありませんでしたというか、個人と会社とは区別していなかったのですね。法人を個人とを区別して課税するようになったのは、明治32年になってからです。
でも実は法人に課税するというのは理論的というよりも、財政的な理由が大きかったのです。
というのは、明治27年から28年にかけて、日清戦争(写真はビゴーの風刺画)が起きていたのです。
つまり、日本は早く西洋に追いつこうと軍備拡張に励んでいたのですね。
そのためには莫大な予算が必要です。
そこで、当時勃興してきた企業に課税しなければということになったのが裏事情です。
明治32年に初めて所得税法の中に、法人課税についての規定が追加されました。
ここでの課税所得計算式を簡単にすると、「總益金-總損金=課税所得」(4条1号)です。
今の課税所得計算式とあまり変わりないですね。
ただ、今は「總」がとれて、「益金-損金=課税所得」となっただけです。
なぜ「總」が取れたかについては、また、後日説明しますね。
いずれにせよ、100年以上前に作られた計算式が今でも使われているとは驚異的ですね!
ところで、当時は会社からの配当金は非課税とされていたのですね(4条、5条7号)。
これは当時の法人に対する考え方として、法人を独立の課税主体と考えていなかったのですね。
法人の所得に課税するので、その所有者たる株主への配当金に課税するのは2重課税になってしまうというのが理由です。
ただ、当時の議事録を読むと、課税庁としては本来は法人を独立の課税主体と考えるべきと思っていたので非課税にする必要はないと思っていたが、明治32年に初めて法人課税が始まったばかりなので、ショックを和らげるために、あえて配当金は非課税としたということを政府委員が答弁していましたね。
しかし、大正9年には法人を独立の課税主体と改め、配当金にも課税するようになりました。
ところで問題は商法です。
商法は、明治23年商法を廃止して、改めて明治32年に発布されなおしました。
しかしこの商法は、ドイツ式の財産法(財産目録法)を採用していたのですね。
つまり、期首期末の財産比較によって利益を算出する方法です。
困ったのが当時の銀行や大企業です。
皆さん覚えていますか、明治初期に日本が導入した簿記システムは、複式簿記を前提とする英米式の損益法だったのです。いち早く損益法の会計システムを導入していた銀行や大企業は非常に困りました。
損益法は複式簿記による記録を前提として、収益費用を認識して利益を算出する方法ですね。
期間損益計算を重視する損益法に対して、期首期末の財産有高だけで利益を算出する方法は全く違うものです。
まず、財産目録を作成していないにも関わらず、財産目録を商法の命令により作成しなければならなくなりました。
そこで仕方なく、貸借対照表を作成したのちに財産目録をおまけとして作りました。
本来、財産法のシステムはまず財産目録を作成することから始まりますので、これは全く逆ですね(ドイツ会計学の流れをくむ太田哲三は、後の著書でこのことを笑い飛ばしていましたが)。
これくらいならいいのですが、財産法は時価主義なので減価償却費が認められないのです(減価償却は取得原価を期間配分する技術ですから原価主義ですね)。
ところが、当時の海運会社は、高額な船の再購入費の確保のために、減価償却費を計上して積み立てていたのですね。ところが、商法は時価主義のためこれを認めない。そこで税法もこれに従って、減価償却費を否認したら、怒って海運会社が訴訟を起こしました(写真は1908年竣工の「天洋丸」:引用元/日本郵船歴史博物館)。
これは、明治35(1902) 年から明治36 (1903) 年にかけて,東洋汽船株式会社, 日本郵船株式会社等が起こした訴訟です(東洋汽船株式会社(明治三十六年七月十日宣告)、日本郵船株式会社(明治三十六年七月十日宜告),大阪商船株式会社(明治三十六年十二月二十五日宜告)等)。
ところが、当時の行政裁判所は海運会社の言い分を認めたのです。
ただ判決は、期間損益としての減価償却費を認めたというよりも、時価評価すべきだけど,「船舶ハ其時価ヲ知ルコト難キモノ」であるため,経年による減損を年数により割り当てて計上するのは止むを得ないね、というものでしたので,むしろ資産の評価損として認定したのです。
しかし、この判決後は、商法・税法・会計交えて減価償却費について議論が活発となり、そして商法は明治44年に時価以下主義を認めて、財産法のもとでも結果的に減価償却費が認められる余地を作り、税法側は大正7年に内規ではあるけど減価償却費の損金算入を認めるようになったのです。垣根を超えた議論は重要ですね。
閑話休題
明治時代は、最新式の簿記会計(複式簿記、損益法)がいち早く導入されましたが、のちにドイツ式の商法(財産目録法、財産法)が導入されたため、大混乱となったのでした。
明治時代の大企業の中には商法に従わない企業も結構あったですが(英米式の損益法を採用していた)、銀行は政府の統制が強いために商法に従った会計を強制させられていたようです。
ところで税法というと、商法(財産法)が計算についての詳細を規定していなかったこともあり、独自の路線を歩み始めていました。商法をチラチラ見ながらも、かなり会計(損益法)に接近した運用をしていたことが当時の課税庁による解説書から読み取れます。
それもそうですよね。複式簿記を一番勉強していたのが大蔵省でしたから、課税庁側もかなりの程度の複式簿記の理解があったと思われます。
ところが、大正時代に入って、貸借対照表を重視するドイツ会計学が日本に導入されるようになり、事態が一変するようになりました。(続く)